現在では国際ジャーナリストとして知的なイメージの強いモーリー・ロバートソン氏ですが、
そのバックグラウンドは私たちの想像を絶するほど「パンク」なものでした。
特に思春期を過ごした広島での日々は、恋と衝動、そして古い教育体制への反逆の連続だったのです。
今回は、モーリー・ロバートソン氏の若い頃ややんちゃエピソード、
不純異性交際で退学した真相について紹介していきます。
目次
【画像】モーリー・ロバートソンの若い頃はイケメン
- 出生名: Morley Edmund Robertson
- 生誕: 1963年1月12日
- 出身:アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ニューヨーク州ニューヨーク
- 学歴: 東京大学(中退)、ハーバード大学
- 職業: DJ、ミュージシャン、ラジオパーソナリティ、ジャーナリスト、作家、通訳者
モーリー・ロバートソンの若い頃を語るとき、避けて通れないのが、その圧倒的なルックスと存在感です。
アメリカ人の父と日本人の母を持つ彼は、幼少期から日本とアメリカを行き来する生活の中で育ちました。
彫りの深い顔立ちに加え、思春期の早い段階から身につけていた自然な自己肯定感は、周囲の同年代とは明らかに異なる空気をまとっていました。
13歳で父の転勤により再びアメリカへ渡り、14歳から15歳にかけてサンフランシスコで生活。
本人の語りによれば、当時は一人で音楽に合わせて踊ることも苦にならない、どこか牧歌的で自由な少年だったという。
一方、アメリカの学校では教員ストライキが相次ぎ、教師との衝突も経験。混乱した空気の中で、彼は次第に違和感を募らせていきました。
そして15歳のとき、「ここじゃない」と感じた彼は、自分の意思で日本へ戻ることを選びます。
「一つのルールの中で生きたい」――その選択は、背伸びでも反発でもなく、どこか冷静でした。
帰国後は留学生向けの寮で暮らしながら、修道学園に復学。
2年以上ぶりに戻ってきた彼は、アメリカで身につけた軽やかな社交性と、日本的な規律意識を自然に併せ持っていたのです。
また、見た目は当時大流行していた映画『サタデー・ナイト・フィーバー』のジョン・トラボルタを彷彿とさせるスタイルに。
パーマをあて、最先端のディスコファッションを身にまとった彼は、保守的な広島の街で異彩を放っていました。
地元の女子高生たちにとって、流暢な広島弁を操りながら、アメリカの風を運んでくる彼は、まさに憧れの象徴だったのではないでしょうか。
モーリー・ロバートソンはやんちゃだった!
モーリー・ロバートソン氏は、端正な顔立ちで知られていますが、若い頃の中身は、見た目以上にかなりやんちゃだったようです。
今で言うと「その行動、アウトじゃない?」と思うようなことも、普通にやっていた時代でした。
まず印象的なのが、本人が語っている「ソーシャルスキルの高さ」です。
アメリカで育った経験から、人に話しかけること自体にまったく抵抗がなかったそうです。
当時の広島では、男子中高生が女子生徒と目が合うだけで挙動不審になるのがわりと普通でしたから、その差はかなり目立ったはずです。
自然に声をかけて、普通に会話を続けられる。その振る舞いだけでも、「なんか雰囲気が違う人」だったのではないでしょうか。
そして、夜の遊び。
本人の証言によれば、未成年の頃からディスコに通い、音楽とダンスに夢中になっていたそうです。
今だったら、未成年でディスコなんてまず無理ですよね。保護者呼び出しレベルです。
でも当時は、時代の空気もあって、ギリギリ成立してしまっていた。
ディスコは彼にとって、ただの遊び場というより、自分を解放できる居場所だったようです。
さらに、当時流行していたアーケードゲームにも相当ハマっていたそうで、仕送りされた生活費を短期間で使い切ってしまったこともあったとか。
……いや、これは今でも怒られますね。親だったら普通にキレます。
モーリー・ロバートソンが不純異性交際で退学した真相とは?
2019年4月、日本テレビ系「スッキリ」に出演したモーリー・ロバートソン氏。
若き日に通っていた高校を不純異性交遊により退学させられていたことを明かしました。
しかし、モーリー氏が広島の名門・修道学園を去ることになった経緯は、単一の不祥事ではなく、複数のトラブルが連鎖した結果でした。
そのプロセスを詳しく紐解くと、当時の彼の危うさと、保守的な学校組織の対立が見えてきます。
「不純異性交遊」の噂と妊娠騒動
退学へのカウントダウンが始まったのは、彼がアメリカから持ち込んだ「オープンすぎる性への好奇心」が、当時の日本の男子校という閉鎖空間で爆発したことでした。
アメリカのハイスクールでダンスパーティーやデート文化を経験していたモーリー氏は、女子と話すことすらままならない周囲を尻目に、女子校生に声をかけ、ディスコへ連れ出すという「異次元の社交性」を発揮していました。
しかし、その奔放さが仇となります。
事の契機は、二人の女子生徒、A子とB子との間で揺れ動いた末の「一夜の過ち」でした。
性知識が乏しかったモーリー氏は、後日、同級生に極めて具体的な相談を持ちかけます。
「女とはどこまでやると子供ができるんかいのう?」「えっ、お前、やったんか?」「いやいや、B。B言うてわかるやろ? Bの、B’って言うんかいのう? Cまでは行っとらん。挿れとらんと思うんじゃけど、こすりつけて、出したんじゃ。
https://block.fm/news/morley_robertson_fujuniseikouyu
この不用意すぎる発言は、多感な男子学生たちの間で瞬く間に歪曲され、「モーリーが女子高生を妊娠させた」という衝撃的な噂へと変貌しました。
学校側はこの事態を重く見ました。驚くべきは、彼1人の行動を封じ込めるために、全校生徒の生徒手帳が回収され、改訂版が配られたことです。
そこには新たに3つの禁止事項が並んでいました。
- ディスコに行くべからず
- ゲームセンターに入り入り浸るべからず
- 不純異性交遊を禁ず
後に「モーリー法」と呼ばれることになるこの校則改訂により、彼は事実上の「要注意人物第一号」として包囲網を敷かれることになったのです。
器物損壊事件(自転車投げ捨て事件)
妊娠騒動で首の皮一枚繋がっていた彼に対し、決定的な「ダメ押し」となったのが、愛憎劇の末に起きた「自転車投げ捨て事件」でした。
モーリー氏は、新たに意を寄せていたC子という女子生徒を、仲間の同級生であるKくんに奪われてしまいます。
しかもKくんは、モーリー氏がいない隙に「あいつは不良で妊娠騒動を起こしたから付き合ってはいけない」と彼女に吹き込み、自分と付き合うよう仕向けていたのです。
この裏切りと卑劣な工作に、モーリー氏の怒りは頂点に達しました。
「あいつはぴしゃげたらん(叩きのめさないと)いかん!」と憤った彼は、実力行使に出ます。
標的は、Kくんがこれ見よがしに乗り回していた、やたらと高価な自慢の自転車でした。
ある自習の日、モーリー氏を含む6人の仲間はKくんの自転車を取り囲みました。
そして、周囲から見えないようにガードを固めながら、その高級自転車を担ぎ出し、宇品の防波堤まで運びました。
「いのこ、いのこ、亥の子餅ついて、繁盛せい、繁盛せい!」
そんな掛け声と共に、自転車は海へと放り投げられ、泥の中へと沈んでいきました。
1〜2週間後にサビだらけで発見された自転車は、もはや無残な鉄屑。
この行為が「器物破損故意」と認定され、学校側はついに彼を排除する大義名分を得ることになったのです。
「自主退学」という名の司法取引
「妊娠騒動」と「自転車事件」の二連発により、教職員会議の結論は決まっていました。
しかし、ここで驚くべき「大人たちの取引」が行われます。
呼び出されたモーリー氏の母親に対し、学校側は非公式な提案を持ちかけました。これが実質的な「司法取引」です。
学校側の論理はこうでした。
「強制退学」の処分を下せば、その事実は内申書に刻印され、彼が志望する東京大学などの国公立大学への受験資格を事実上失うことになる。
しかし、学校の決定に従って自ら身を引く「自主退学」の形を取るのであれば、内申書には傷をつけないよう配慮し、将来の受験を保証する、というものでした。
この冷徹な選択肢を前に、モーリー氏は広島を追われる身となります。
彼は母の故郷である富山県の高岡高校へと転校することになりました。
一見、広島での挫折で幕を閉じたかのように見えますが、この「追放」こそが彼の真の覚醒を呼び起こします。
富山でパンク・ロックに出会い、既成概念をさらに破壊した彼は、1年半後、日本中を驚愕させる「東大・ハーバード同時合格」という伝説を打ち立てることになるのです。
まとめ
今回のエピソードは、単なる「やんちゃな学生時代」の枠を超えた、モーリー・ロバートソン氏という怪物の「原点」と言える物語でした。
アメリカ仕込みのオープンな感性と、保守的な広島の校風。
その摩擦から生まれた「妊娠騒動の誤解」や「モーリー法」の制定、そして意地が爆発した「自転車投げ捨て事件」。これらは一見、挫折の記録に見えますが、実は彼の自由な精神の現れでもありました。
広島を追われ、富山の地でパンクロックに覚醒した彼が、その後に東大とハーバードを同時制覇したことを考えれば、この退学騒動こそが彼を世界へと解き放つターニングポイントだったと言えるでしょう。
